折角天誅も復活したことだし、雑記でも書き連ねようと思う。
先程散歩をしながら「老け」という感覚について考えていた。
中学3年生の頃、僕は部活の後輩たちを眺めながら「自分も年をとったもんだ」と感じた。だが、中学を卒業し高校生となると、つい先日まで感じていた筈の「年をとった」という感覚は霧散してしまい「まだまだ子供だ」という気分に捕らわれた。
時が過ぎ、高校3年生になると僕はまたも「年をとった」と感じ、大学に入学すると「まだまだ子供だ」と思いなおした。
それからフリーター生活を5年ほど続けていて、すっかり「年をとったな」という感覚が身に染み込んでいたのだが、3ヶ月前に就職してから、再び「まだまだ子供だ」という感覚が蘇ってきた。
この事から察するに、どうやら「老け」という感覚は、実年齢よりもコミュニティに在籍している年数に影よって生まれてくるようである。あるコミュニティに数年間在籍すると、その生活環境に慣れ、どのような事が起こり、どう対処すれば良いのかという事がわかってくる。この事が安定感と倦怠感を産み「年をとった」という感覚に繋がっているのだ。
周囲の人間が与える影響も大きい。コミュニティのメンバーに「古株」扱いされる時、人間は自分の年齢がいくつであっても「老けた」と感じる。逆に「新米」扱いされると、実年齢がいくつであっても「まだ子供」だと感じるのである。
また、コミュニティメンバーの平均年齢も大きな影響力を持つ。周囲が老人ばかりの環境に放り込まれれば40歳の壮年でも「まだ子供だ」と感じるだろうし、幼児ばかりの中にいれば15歳の少年だって「もう大人だ」と感じるだろう。だから例えば、50歳で政界入りした人などは「自分はまだ子供だ」と感じているだろう。逆に、両親から幼児のお守り役を言い渡された中学生は、自分の事を「年をとった」と感じているに違いない。
何が言いたいのかというと、人間の「老け」に関する感覚は極めて相対的であてにならない、という事を主張したいのだ。「まだ子供だ」とか「年をとった」とかいう感覚は、なんらかのアクションを起こす上で阻害要因にしかならない。「まだ子供だから」とか「もう年だから」という、行動しない理由に繋がってしまうからだ。このような感覚に捕らわれて自分を縛り、やりたいことを諦めてしまうのは実に馬鹿馬鹿しい。やりたいことがあれば、それがどんなことであれ、とにかく行動に移すべきだ。そうすれば人生は、少なくとも楽しいものになる。
そんな事を考えて、性懲りもなく天誅活動を再開したのである。
ん、なんだかよくわからない内に、いい感じにまとまった気がする。
というわけで、この辺りで筆を置こうと思う。
それじゃあ、また―――
